道徳授業の定石化 「教科書」という権威に騙されるな。「きつねとお地蔵様」

2025年3月30日

誰が言ったか?で人は騙される。

石川正三郎校長の「お地蔵さんときつね」の話。

新学期始まってそれほど立っていない頃の朝会での話だと推測される。それは、この寓話をした際、
本校の教育はまだまだだと思い、
「また三月になったらこの話するからよく考えておいてね。」
といって台をおりた。
と「辛口『向山洋一論』」にあるからだ。

石川校長は、
「お地蔵様を受け持ちの先生と考え、きつねとうさぎを自分たちと考え、どちらの考えに賛成するか。」
と質問してみた。ほとんどの児童はお地蔵様の考えに賛成であった。(前出書より引用)

賛成しなかったのは、向山学級の四,五名だけ。
これを見て向山氏一人が「やられた。」と思ったという有名なエピソードだ。

「権威で人を判断してはいけない。」

「お地蔵様を受け持ちの先生と考え」なさいと校長先生が言っている。それは「受け持ちの先生の言うことを聞いて学習しなさい、と校長先生は言いたいんだな、と思うのが普通だ。
だが、それではいけない。そんな人間に育ててはいけない。大本営の発表を正しいと信じたが故に、先の大戦で日本は負けたのだ。

これからの日本は、そんな教育をしてはいけない。
お地蔵様に「わたしもうさぎさんのように、早く走れる足がほしいのです。」と言える子に育てなければならない。
「校長から挑戦状を突きつけられた!」
と教師は気付かなければならない。

「教科書は正しいか?」

道徳教科書で扱う教材も同じこと。
たとえば「金のおの」(光村1年)で「誰が一番悪いですか?」と問えば、「友達の木こり」が一番悪いと答える子が多数を占める。それはそうとして、さらに「もういないですか?」と問うと、「いない」と答えて終了となってしまうのが普通だ。
だが、中には「神様が一番悪い」と考える子もいるだろう。なぜなら神様は木こりに嘘をつくよう試した(誘惑した)上で、はじめの木こりには金の斧も銀の斧も一緒に渡し、友達の木こりからには斧を返さずに取り上げてしまった。そのやり方はどうなのか?やり過ぎではないか?
そうしたことを言える「自由」で「平等」な場を教師は保証し、たとえ一人であってもそのように言える「たくましい」子を育てるべきなのだ。

「にちようびのできごと」(教出1年)も同じだ。一番悪いのは、注意をしない大人なのだが、1年生にそれに気づくことを求めるのは難しい。

「ふたりのゆうた」(日文1年)も、同じ事が大人にも要求できるのか?教師が教科書を疑って考えるべきなのだ。

「神様が悪い、と言う考えもあるね」「注意しない大人が悪いね」という幅のある考えを持って教科書に出ている教材を読み、授業するのとしないのとでは、大きな違いがある。

「にちようびのできごと」出てこない登場人物は誰か?についてはこちら

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