道徳授業の定石化 「とおるさんのゆめ」(教出2年)よいところをのばす
長文教材の扱い方
「とおるさんのゆめ」は、二年生の後半の4ページにわたる教材。これだけ長文だと「聴覚入力が苦手」な子は、一回の読み聞かせで内容を正しく把握することはとても難しい。
そうした子も安心して話を聞けるようにするためには、読み聞かせの前に「あらすじ」を伝えてから読んでいく事が大事だ。そして、話の途中途中で
「誰が出てきた?」(ぼく)→「鉛筆で丸囲み」
「次は?」(とおるさん)「赤鉛筆で」
「これは誰が言ってる?」(とおるさん)「①とおるさんのセリフ、赤線引く」
「とおるさん、どんな子?どんなことしてる?」(おとなしい)(あそびにさそってもあそばない)
といった発問や指示を出しながら「登場人物」「セリフ」「したこと・特徴」などを記述を元に確認していく。
ワークシートの設問は意欲を高める?
教科書指導書には、ワークシートが付いているものが多い。これを「使わなければいけない」という法的義務など全くないにも関わらず、手間ひまかけてこれを印刷し、ありとあらゆる授業に利用している教師が想像以上に多い。ワークシートには、いい物もたしかにある。しかし、その中身は妥当なのか?
「とおるさんのゆめ」のワークシート設問を書き出してみた。(※ワークシートには、イ〜二の記号は書かれていない。)
イ「みんなが話したとおるさんのよいところを聞いて、「ぼく」がおどろいていたのはどうしてでしょう。」
ロ「みんなはどのような気もちで、とおるさんの話にはくしゅをしたのでしょう。」
ハ「友だちのよいところを見つけて、おたがいのよいところをつたえ合いましょう。」
二「友だちのいけんを聞いて、気づいたことや考えたことを書きましょう。」
これを印刷した紙を配られて、子どもたちは書き込みをする時間を与えられる。
この設問で、書く気が起こる子は、はたして何人いるのだろうか?
国語の時間の短作文ですら、一文字も書かない子が少なからずいるというのに、この設問に対して短時間で自分の考えを書けるはずがない。そうした現場のことを全く分かっていない人が作っているのだろう。
逆に現場にいるのなら、このワークシートに何も書けない子にどのように対応しているのだろう?
「使えない」と分かっているのに、なぜそれを使い続けているのだろう?
意味不明なことをしていてなぜ平気でいられるのか?
道徳の授業だから?そうではあるまい。
(閑話休題)
ワークシートの設問に戻る
イの「おどろいていたのはどうしてでしょう。」って、そんなこと分かりません。文中には、理由は書かれていません。強いて言うなら、「どうぶつにやさしい」という「やさしい」という言葉に反応して「おどろいていた」と想像はできるかもしれないが、そんなことはどうでもいいことだ。
※そもそも、本文の「おどろいていたぼく」という表現も変だ。
「おどろいたぼく」と書かれていれば、「やさしい」という記述が直前にあるので、それに反応して「おどろいた」のだろうと読み取れる。
「おどろいていたぼく」では、みんながとおるさんが「毎日、しいくごやに行って、どうぶつのせわをしてい」たり、「かたずけたり」しているなど、僕が知らなかったとおるさんのいいところを発表しているのを聞きながら「おどろいていた」とも読み取れる。
一方で、とおるさんは「どうぶつにやさしい」だけじゃない。「このあいだも、ぼくのおとしものをいっしょにさがしてくれた」し、「こまっている人がいると、すいぐにたすけてくれる」し、とおるさんとの出来事を思い出してあれこれと考えていた、というような読み取りもできる。
だが、そうしたことは国語の読解学習でやればいいことで、わざわざ道徳の授業で考えさせるような内容ではない。
(また横道にそれてしまった…もとい)
ロの「みんなはどのような気もちで、とおるさんの話にはくしゅをしたのでしょう。」という設問も困る。
A「ありがとう」と言ったから?
B「あまりみんなとあそべなくて、ごめんね」と謝ったから?
C「大人になったら、どうぶつ園のしいくいんさんになりたいです。」と夢を語ったから?
D誰かが発表したら、反射的に拍手することになっているから?
ごく自然なのはD。でも、この設問はそんな答えを期待しているわけではないので、AでもBでもCのような事を発表した子に対して、「なるほど。そういうことはありますね。」みたいなことできれい事の発表が追認されていくような授業にならざるをない。
ちなみに、A、B、Cのようなことを、短時間でワークシートに書き込む詐称は、普段から考えを書き慣れていない子にとっては苦行でしかない。となると、道徳の時間に活躍する子と言うのは、自分の考えを短時間にまとめて書き、Dのような本音ではなく、A、B、Cのような建前の答えを発表してくれる子、ということにならざるを得ない。
なので、定石①〜③で授業を進めた方が少しはいいような気がするが、皆さんの判断は?
あらすじ
僕のクラスでは、朝の会や帰りの会に「ともだちのよいところ」を伝える時間がある。今日は「とおるさん」のよいところを伝える日だった。ところが、とおるさんと僕はあまり遊んだことがない。僕は、みんなの発表を聞きながら、どんなことを伝えたのでしょう。
定石①「登場人物」「会話文」「したこと」の確定
「登場人物」→とおるさん(赤丸囲み) ぼく(青丸囲み) みんな
出だしから「ぼく」の目線で語られているが、「とおるさん」と書かれている箇所が最初見開き2ページで8カ所と圧倒的に多いので、とおるさんが「中心人物」である。しかも題名は「とおるさんのゆめ」となっている。
「会話文」は6つ。ナンバリングをして、話主も確定する。
ぼく⑤ とおるさん①⑥ みんな②③④
発問1「とおるさんのよいところは?」
A どうぶつのせわ」
B ウサギの水替えや糞の片付けを頑張る
C どうぶつにやさしい」
D こまっている人をすぐたすけてくれる
定石②中心人物の変換点の検討
発問2「おとなしくて、あそびにさそってもあそばないとおるさんが、みんなにいいところを伝えてもらって、それまでと変わっている所があります。そこに指を置きましょう。」
⑤番→あそびに誘ってもあそばなかったことをあやまっている所。
おとなしいとおるさんが、みんなに「ありがとう」と言ってる所。
大人になったときの夢を話している所。
定石③今の自分、未来の自分を選ぶ
発問3「今の自分は、変わる前(のとおるさん)と変わった後と、どちらに似てますか。
発問4「自分がとおるさんだったとして、これからは、前と後、どちらになりたいですか。」
発問5「自分のよいところを知らせてもらったら、どんなことをしたいですか。」
お礼を言いたい。
手紙を書きたい。
ほめられた所、良いところをのばしていきたい。
まとめ
1月からの生活科学習では、小さい頃からの成長の記録をまとめる学習が始まる。本教材はそれと時期が重なる。生活科の教科書(光村)には、「友達同士、良いところを伝え合おう」という活動が示されている。
二年生の発達段階を考えると、自分に対して過剰に自信をもちすぎ、時に他者に対して厳しく当たったり、逆に自己評価がとても低く、友だち関係が築きにくく悩んでいる子も少なからずいる。
そうした中で、「他者からの評価」という第三者からの「客観的視点」も取り入れ、この時期の子どもたちの可能性を伸ばしていきたいという意図が、どこの教科書会社の編集者にあるのだろう。
「生活科でつぎにやる「広がれわたし」の学習では、自分の成長の記録をまとめます。その中に友達同士で「いいところをつたえあおう」という活動があります。友達の良い所を見つける時のヒントが今日のお話にたくさんありましたね」
そんなまとめ方もあるかもしれない。
道徳授業の定石化「七つのほし」はこちらから。
道徳授業の定石化「①登場人物の確定」「②変換点の検討」「③今と未来の選択」についてはこちらから。
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